【歌を忘れたカナリヤは】



 失われてしまった青春を、さがしている。
 二重ロックの扉を開けて、わたしは夜の自室へ体を滑り込ませた。帰路で買った食料を冷蔵庫へ入れる。アルバイトの制服を洗濯機へ投げ込んで、部屋着を被ってひとつ息をはいた。今日はなんだか妙に疲れていて、遅い夕食の準備をする気にもなれず、力尽きたようにフローリングの床に寝転がった。
 ひんやりと硬い地面の上、言葉にならない声を吐いた。頭痛がする。わたしは風邪なんてひかないはずなので、たぶん気のせいだ。やみくもに手を伸ばすと、指先に硬いものが触れた。音楽プレイヤーのリモコンだった。そのまま離してしまうのも嫌で、ぎゅっと自分のほうへ抱き寄せた。なんとなくそのまま持ち上げて、どこでもない空間に向けて再生ボタンを押し込んだ。ハードディスクの起動音に合わせて、手を下ろす。言葉が不要になったので口を閉じた。埃やら抜け毛やらがやたらと目につくので、そのまま目も閉じた。
 最小設定の音量で、スピーカーから乾いたギターのリフが流れだした。ストラトキャスターの優しい音色に、心臓が跳ねた。バンドサウンドが真っ暗な世界に溢れていく。リズムをとる体は捨ててしまったので、リモコンにとんとんと指をぶつける。年老いたヴォーカルが歌いだすのと同時に、音を伴わずに口が開いた。
 彼らは数十年も前に、バンドを結成した。何度も喧嘩を繰り返して、ステージで大騒ぎをして、そんな毎日を過ごして少年じゃなくなった。わたしが最近見た写真では、彼らは歳相応のくたびれた体でしわの目立つ笑顔を見せていた。それでも、ずっと変わらず同じ音楽をやっていた。時代錯誤のような昔そのままの愉快な音楽を、年月を刻んだ体で続けていた。
 ごとりとリモコンが手から滑り落ちた。湿った咳が出て、体が少しだけ縮んだ。部屋いっぱいには自分が振り落とされたメロディーが響いていた。何度か胸を震わせて、ようやくまた地面に戻った。
 わたしは、失われてしまった青春を探していた。この数年の間に、いろいろなものを失くしてしまっていた。気がつけば大学に通っていて、アルバイトをしながら一人暮らしをしていた。家族とは疎遠。友人は片手に収まるくらい。黙々と生きることを続けている。でも時折、ふっと何かが欲しくなった、それがたぶん、青春だ。
 何度か咳を続けているうちに、再生していたアルバムの半分が過ぎ去っていた。歪ませたギターと跳ねるベースが止まり、静かなリズムに合わせてアコースティックギターが入った。ヴォーカルは先程までの声色を捨てて、囁くようにしわがれた声で歌いだす。若い頃は付け焼刃だったバラード。今では一番似合っていた。
 この曲が終わったら、体温計を出そう。
 真っ暗な部屋の中。食べ物と、服と、家具が最小限。勉強道具と本が少し。CDとプレイヤーが棚の上。わたしはなくしものをしたままで、床の上に横たわる。


 すごいこれはすごい。青春という単語が不要だったかもしれないけどすごい

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 表現方法が凄く良かったと思います。千早のその後(なのかな)にある日常的な閉塞感、それに加えて乱暴な言葉の中にも組み込まれた言葉の溜めや必死さと虚しさを表現できていたんじゃないでしょうか。とても秀作だなと感じる作品でしたね。

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 もう永遠に失ったのか。まだ、なくしている最中なのか。何か欲しいと思うなら、体温計なんか掴んでないで、欲しいものに手を伸ばせばいいよ。

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 とがった千早ちゃんのssはとてもよいもの。なんだかかたるさんのような気がしないでもない

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 青春を失ってしまった者。そしてそれを、取り戻すことができない者。それはなんて、悲しいのでしょう。手から滑り落ちたリモコンと共に、彼女が音楽から振り落とされる場面が胸を突きます。全体的にリアリティのある冷徹な筆致が、より一層悲しみを引き立てていると思います。

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 これもまた、青春の姿なのかもしれません。彼女が、なくしたものを見つけられますように……

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 歌を忘れてしまったカナリアは、生きているのか死んでいるのか。ただ死んでいないだけのような千早の姿にひどく悲しく感じました。「歌を忘れたカナリアは 象牙の舟に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」と言うように、いつかこの千早も思い出すことができる日が来るのでしょうか。それとも、それは在りし日の青春の如く失われてしまったのでしょうか。歌おうとしてやはり歌えない千早があまりにも切なげで言葉を失いました。

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 これは千早じゃなくて、あなたなんじゃないですか。

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 淡々とした日常の中に、年を重ねた千早の寂しさが積もっている気がしました。ずしっときました。

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 この乾いたちーちゃんに誰か水を与えておくれ

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 部屋そのものが千早のような、がらんとした感じが伝わってきました。台詞が一言もなかったのが良かったのかな、とか。

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 こういう話好きです



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