【時よ、そなたは美しい】



 なぜ、と大人たちは問うけれど。

 もちろん、そこに意味なんてないんだ。

 もしかしたら、何にでも意味を求めてしまうってことが、大人になるってことなのかもしれない。





 なぜ、と問われたら、家に帰りたくないから、と答えただろう。

 夜の事務所。私は、アイドルとしてのスケジュールが終わった後も、毎日そこでぼんやりと過ごしていた。プロデューサーが残業しているのを幸いに、深夜までそこに残っていることもしばしばだった。
 始めのうちは危ないから早く帰れと言っていた彼も、私の事情を知るとそのうち何も言わなくなった。そんなわけで、私はわずかながらも安息の地を手に入れたのであった。
 もちろん、時間を潰す場所は別にそこでなくてもよかった。ならばなぜそこに居座り続けるのか、という問いに対する答えは、自分でもよくわからなかった。


 では、なぜ、この少女は私の目の前に座っているのだろう。

 春香は、私の問いに対して、照れくさそうに「家に帰りたくないから」と答えた。
 驚く私に慌てて手を振り、「や、別に家が嫌いとかそういうわけじゃないよ!」と弁解する。
「いいじゃない。ただここにいたいだけだよ」
 笑顔でごまかされた。



 それから、私たちは事務所で一緒に過ごすことが多くなった。春香は時々時間を忘れて終電に乗り遅れそうになりながら猛ダッシュすることすらあった。では事務所で何をしているのかと言うと、ほぼ何もしていないに等しい。たわいのないおしゃべりをしたり、春香の持ってきたお菓子を食べたり、宿題をしたり、一緒にTVを見たり、CDに合わせて歌ったりしていただけだ。
 別に春香の得になるようなことは何もない。そのまますぐに家に帰ってしまってもいいはずだった。ではなぜ、春香は事務所に居残り続けるのか。事務所を出る時に、どうしてあんなに切なそうな表情を見せるのか。ある日私は改めて尋ねてみた。
 すると春香は、一瞬だけ遠い目を見せた。

「ここにいる間だけはね、私はアイドルでいられるから」

 ああ、春香は本当にアイドルが好きなのだな、と思った。

「それにね、千早ちゃんと一緒にいると楽しいし」

 一言が余計な性格は相変わらずだった。



 ある日の夜、私は事務所でギターを奏でていた。
 別に本格的に勉強をしようと思ったわけではない。
 プロデューサーのお古をもらったものを戯れに爪弾いていただけだ。

 あ、私その曲知ってる、とそこに春香が乗ってきた。


 love'in you


 稚拙な演奏に、音程外れの合唱。
 思いつきの、馬鹿げたアドリブの交歓。
 誰も聞くものもいない、一夜限りのmuseの悪戯。


 時は止まらない。時計がてっぺんに近づいていく。今日も終わりの時間がやってくる。


 そして、最後の一音。



 別になんということはない、他愛のない一日の終わり。

 けれど、2度とは繰り返されることのない、そんな一日の終わり。



 人からは「なぜ」と問われるだろうけれど。


 私は、この日のことを決して忘れることはないだろう。





(了)


 他愛のない平坦な日常の中に、些細な喜びを見出すことはとても難しい。でも、春香はもしかしたら、そんな難しいことを容易くできてしまうんだろう。千早には、それが羨ましく思えたのかも知れないし、それさえも平坦な日常の中に押圧されて、思い出の染みみたいになっているのかも知れない。二人の微妙な距離感、友達としての信頼感。そんな日常性の絆を再確認する二人の時間は、確かに美しかったです。

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 時計の針が0時を回ってしまうということは、これから千早さんの家に泊まる、もしくは事務所に宿泊ということですか。それに付き合う千早というのも、どこかノスタルジーを感じさせるものがありました。

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 青春時代って、いつもとは違う自分でいられる場所っていうのが、ひとつぐらいあった気がするんだ。部活や、委員会や、たとえば気になるあの子の前だって。。

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 すごく青春らしい一幕なのに何処か虚無的な印象を受けました。「子どもは「今」の連続の、デジタルな世界に生きている」と偉い人が言ったのですが、子どもと大人の狭間にある二人が「着々と失われゆく『今』」を感じている、そんな話なのかなと思いました。

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 春香さんが音程はずれとかひどい! タイトルで「止まれ」とまで言い切らないのがすごい好きです

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 千早は肝心なところで鈍感なので、春香さんも苦労すると思います。

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 春香が一瞬見せた隙というか、本心がきゅんときました。二人のセッションが聞こえてくるような、よい余韻でした。

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 作品に流れる空気感がとても好みです。春香さんの台詞にもはっとさせられていいなぁと思いました。改行もっと少なくてもいいのよ・・・?

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 この設定の別の話も読んでみたいです

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 思い出に意味を問うのは無粋なことですが、どうにも大人になると理屈っぽくなっていけません。その時間こそが至宝だというのに。

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 もっと時間が経ってから、この時を思い出す千早の図、が浮かびました。青春時代というのは過ぎた時間の中にあるのかなあ、と思いました。春香と千早の関係がいいバランスで好きです。

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 寓意っつーか見立てがわからなかった。ごめん!

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 アイドルでいられる、の意味が深いですね……。



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